中山可穂に対する愛の中身をもっと詳しく書いてみる

前回の「中山可穂と松浦理英子に対する奇妙な愛情を告白する」にコメントを下さった皆さん、ありがとうございます。なんだか伝わってないような気もしたので、今日は補足でもう少し書きますね。まあ私の中山可穂への意見が正確に伝わっていようがいまいが、大した問題ではないのですが、その微妙なズレみたいのは、考えてみると面白い問題をはらんでいるような気がしたので。あの、あれですわ…。先の文章だと、「ゆうさん、なんだかんだいいつつ松浦さんと中山さん大好きなんですね!」って取られるかもしれないけど、彼ら二人の作品は、そんなに大好き!超好き!ではないんですよね。(←しつこくてすまん。あくまで好き嫌いの話をしてるだけでして、作家としての才能の話をしてるわけではないです)ただ、彼らの作品に対してエラそうに批評の対象にはできない。なぜなら愛しちゃってるから。ま、そんな感じのことを前回は書いたわけです。

さて。

中山可穂の小説によって人生が変わる人、変わらない人

コメントでも複数、ご指摘があったのですが、中山可穂の小説は、確かに人の人生を変えうる力を持っているのかもしれません。それが魅力でもあり、怖いと感じる人もいるでしょう。

彼女の書く小説はほぼ全てにおいてパターンが一貫していて、【夫がいて、子供がいて、幸せな家庭を持っていて、そんな満たされた主婦がある日女性(大抵アーティストっぽい職業)と激しい恋に落ちる】みたいなメロドラマ的プロット。かわり映えしないといえばかわり映えしないんですが、そのプロットに戦慄と憧れを感じるファンが多いみたいです。

で、私はそういうプロット自体には、実はそんなに興味はない。彼女のお家芸のプロットは一部の人にとっては、人生を揺るがすほどの衝撃を与える力を持っているのかもしれませんが、私にとってはそういう力を持っていない。

繰り返すと、中山可穂の小説によって人生が変わる人と変わらない人がいる。前者のタイプの人は中山可穂の小説を恐れ、崇め、憎み、愛し、すり切れるほど読み返し、またはまったく読まないかもしれない。ところが、私は後者のタイプの人間であり、中山可穂によって人生を変えられていないし、変えられることもないタイプの人間だと思うなのです。(人生を変えられたとすれば、むしろthe L wordかも)

(だから、中山可穂の小説によって人生を変えられてしまった人や、変えられそうで怖い人、っていう人が中山可穂に対して感じる「愛憎」と私の中山可穂への「愛」っていうのは種類が違うと思うんですよ)←これが、前回のエントリに対して頂いたコメントを読んで一番言いたかった点。

(中山可穂については、彼女のストーリーを越えたところでいろいろ感じる部分があるわけです。だから「愛してる」とか口走っちゃったりするわけで(恥)ここで分かりやすく書いちゃうと、一番ぐっとくるのは、筆者自身の投影であろう主人公のたたずまい。いわゆる「タチ」のキャラクターを描いている部分。(パラダイス・サーティや、ラスト・フレンズなどFTMトランスを描いた作品は結構あるがレズタチを描いてる作品はあまり多くない気がする)そして、もっというと、「なぜレズの話ばっかり書くのですか?」めいた質問に晒されながらも、自らにとって切実なテーマを追求し続ける中山可穂さんの表現への姿勢です。そういうところをつくづくすごいと思うし、カッコいいと思うし、エラいと思うし、愛している。まあーですが、そういう理由で「中山可穂、好き」とかは彼女も言ってほしくないんじゃないかと。思っているわけです)

■中山可穂的世界に生きてないレズビアンはいっぱいいる

私自身の今の生き方は、レズビアンレズビアンでも、中山可穂的な世界とは結構かけはなれてて、もっとはっきりいうと、そういう世界には興味がないわけです。基本的に“ノンケを落とす”とか、今は興味がないし、既婚者とつきあったりするのも抵抗があるし、今の私は、バイセクシャルとかノンケとか、デビューしたてのひよこレズたちの「セクシャリティのゆらぎ」とか「世間体と戦う」とか「本当の自分探し」につきあうのは面倒くさい。

って、書くと必ず変な誤解をして、ムカついちゃう人がいるので、フォローしておくけど、別にそういうセクシャリティのゆらぎ自体を否定したり、自分探し的なプロセスを悪だと言ってるわけではありませんよ。実際、自分自身もそういう時期があったしね。

だが、今の自分はそういうステージにいない。だから、そういうプロセスに焦点を当てたカミングアウトストーリーにはさほど興味がない。

あと、主人公がガチレズであっても、主婦とつきあってたり、「ノンケに片思い/ノンケとつきあう苦悩と切なさ」を描いた作品というのは、自分とあまりに違う世界すぎて、さほど興味が持てないがないのです。(さほど興味がない=ノンケの恋愛ものと同じくらいには興味はあるという意味/それくらいしか興味がないという意味)

レズビアンは変態する生き物である。

ここから、ちょっと中山可穂の話から外れます。下の話は、中山可穂とは直接の関係はありません。

卵→(孵化)→幼虫→(蛹化)→(蛹)→(羽化)→成虫

変態動物における幼虫から成虫への変貌は、レズビアンにとっての「ゲイアイデンティティの獲得」「カムアウト」に例えられると思う。ライフサイクルのその時その時で、餌やライフスタイルが違うのは当然といえる。

ここらへんのことについては昔も書いてるので長くなるけど引用してみる。


昔、レズビアン系のウェブサイトとかブログを見始めた頃、苦しい初恋の話とか、いわゆるカミングアウト・ストーリーが大好きでした。

いわゆる「ノンケに片思いして涙」、とか「親にばれて勘当」とか、そういう悲劇が大好きだったんですな。

自分もそういう思いを乗り越えてきましたし・・・。
同じような思いをしている人をみたらうるうるしてました。
切ない恋バンザイ!みたいなね。

自分にとっても初めてつきあった彼女のことがまだ乗り越えられなくて、その子のことをいつも思い出したり、文章にしたりしていた時期がありました。

「レズビアン」である、ということについて非常に考えまくってた(というか考えすぎてた・汗)時期とでもいいましょうか。

以下に自分の性的指向を確立するかに必死だったんですね。

そのくせして、
レズビアンっていう言葉はなんかいやだー
ビアンっていう言葉もなんかいやだー。
同性愛者っていう言葉もなんかいやだー。
ってだだこねてみたり、それぞれの言葉の持つ語感について語ってみたり。
同じようなトピックについて人が語ってるのを聞くのが好きでした。

自分の書く文章も、好む話題もなんというか、新米っぽかったんですな。

レズビアン映画でいえばShow Me Love切ないっ!みたいなね。
Blueいいよねーみたいな。
the L wordでいえばジェニーです。ジェニー。

「マリーナが気になる、・・・・あたしってレズなの?まさかっ!」

みたいなね。

あれからウン年!(←綾小路きみまろ風)

今ではすっかりアウトな人生になりました。
そして周りの友人も、レズ歴○年で、彼女も当然います、みたいな鉄板レズの人ばっかり。

「好きな人は、同性でした」

っていうコピーが、たとえば昔持ってた衝撃・かすかな背徳感とえもいわれぬ魅力は、今はもうないのです。少なくとも今の私にとってはそれはあたりまえのことであり、わざわざ宣言することもないことなのです。

それは「地球は、丸かった」とかと同じくらい自明のように思えるから。

もちろん、いつの時代も、ゲイであることに気づき続ける若者は「恋人は、同性です」という宣言に驚きとあこがれを覚え、そこから一歩を踏み出してくるのでしょうけど、私はもうその時期を過ぎたということですね。

だから、誤解を恐れずに言うと、今の自分にとっては、他人のカミングアウトストーリーは、もはやそんなに興味深いものではないんです。

Yesterday is history, Tomorrow is a mystery
http://yuichikawa.blog28.fc2.com/blog-entry-335.html



繰り返しますが、上に書いたようなカミングアウトストーリーや、「ノンケに片思い」とか「初めての彼女」とか「相手に夫がいて…」「相手に子供がいて…」「親戚の世間体が…」「結婚へのプレッシャーが…」とか、そういうテーマが下らないとか、上のようなテーマを取り上げている作品が未熟だとか言ってるわけでは全くない。これらのテーマはそれなりに深い問題をはらんでいますし、そこから素晴らしい作品が生まれるポテンシャルは十分あると思います。

ただ、それらは幼虫向け、もしくはさなぎ向けのテーマであり、成虫である自分の興味をそそらないというだけ。(もちろん面白い小説であれば、テーマがどんぴしゃりじゃなくても--ノンケの小説を楽しむのと同じように--楽しんで読みます)

■今もっとも興味があるテーマ

今現在の私にとって、もっとも切実なテーマは

「あるある!レズビアンコミュニティ内部のリアルな描写」だったり、
「(自分自身ではなく社会に対する)カムアウト」だったり、
「同性婚ムーブメントやプライドイベントの記録」だったり、
「元カノとの友情」だったり、
「レズビアンカップルの倦怠期/セックスレス/浮気」だったり、
「レズビアンカップル子づくりへの挑戦」だったり、
「いつもタチばっかりですが、たまにはネコになりたい悩み」だったり、
「レズビアン友達に対する禁止された欲望」だったり、
「レズビアンとゲイの友情」だったり、
「フェムフェム至上主義者とダナーズの冷戦」だったり、
「レズビアンコミュニティとトランスコミュニティの微妙な関係」だったり、
「バリバリノンケの皆さんとの折合いのつけかた」だったり、
「キャリアップのためあがくレズビアンの姿」だったり、
「カップル間におけるタチの取り合い問題」だったり、
「一見ソフトに見えて、やっぱり根強い日本のホモフォビア(一見寛容の形を取った抑圧)」だったり、
「ゲイリブを忌み嫌うゲイ当事者の精神構造」だったり、
「アジア系移民のアイデンティティ獲得と、ゲイアイデンティティ獲得の類似点と相似点」だったりするのです。

これらのテーマを「くだらね」と感じる人はもちろんいるだろうが、それらを自分のテーマとして抱えている人は私だけじゃないと思う。そういう人に私は出会いたい。で、自分自身、そういう人が読んで興味深いと感じられるような文章を書きたいと思っている。

★ ★ ★

ところで、上で書いた私にとって切実なテーマの一部を書き換えると、

「別れた恋人と友達になれるか」
「潜在的な恋愛対象と友情を育めるか」
「友達の恋人を好きになったら」
「恋人とのマンネリにどう対処するか」
「人間は浮気をしてしまう生き物なのか?」

などとなるのだが、これらは、究極的には、異性愛においても共通のテーマとなりえる。私はそういうテーマに深く鋭く踏み込んである作品であれば、異性愛モノであっても楽しめる。

逆に、同性愛を扱っていても、その内容が薄いというか、悩みの内容が「同性を好きになるなんて…!」「レズビアンだなんて世間様が許しません!」程度でとまってて、同性愛というテーマから当然導きだされる悩みの粋をでず、入り口を出たりはいったり表面を撫でてるだけのような作品、--まあ、それらしい言い方をするなら、人間が描けていないような作品--は、よいと思わない。

また、上のようなステロタイプな悩みを描いていないとしても、逆に、登場人物が同性を愛することに対して全く逡巡してなかったり、社会との軋轢をまったく描いていなかったら、やはりそれはそれでリアルでないと感じるだろうし。難しいねえ。だから同性愛であればなんでもいいっていうわけじゃないし、

★ ★ ★

ごちゃごちゃしてきたので整理する。自分が作家なり、映画監督なり、誰かを好きとか嫌いとか作品批評みたいのをする時は、以下の三つの要素を気にしている。

(A)テーマの魅力 ←テーマや問題意識自体が自分の興味とかぶっている場合。小説とはかぎらない。エッセイだったり、評論だったり、ルポだったりもする。
(B)物語の魅力 ←テーマが多少ずれてても、面白かったら好きになる。
(C)作者の表現姿勢に対する敬愛やもっと個人的な思い入れ ←これがあると完全にひいきになる。

もちろんこの三つが重なり合ったりする場合がほとんどです。

★ ★ ★

で、最後また中山可穂に話を戻すと、個人的には、彼女に対してはぶっちゃけ(B)の要素とかは結構凡庸だと思ってて、彼女への愛の理由は圧倒的に(C)が勝ってる。ですが、社会的には、(A)をもってして愛してる熱狂的ファンが多い気がする、と。いう感じで、少しはわかりやすくなったかなあ。

てか、一連の中山可穂論みたいのを、ほぼ記憶だけで適当に書いたので、久しぶりに読み返したくなりました。
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  • 2009/05/17
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