同性婚と憲法 ーデイビッド・ボイズの記事

カリフォルニアにおいて同性婚を禁止したProp 8の合憲性を連邦裁判で闘っているDavid Boiesが、本日ウォール・ストリート・ジャーナルのウェブサイトに記事を寄せましたので紹介します。

同性婚と憲法」
-なぜテッド・オルソンと私はカリフォルニア州の住民提案提案8号をくつがえそうとするのか?

私がカリフォルニア州で1959年に結婚したとき、約20州において「婚姻」は、「異なる性別間かつ同じ人種間のもの」に制限されていた。8年後、最高裁は満場一致で、州による異人種間の婚姻の禁止は違憲であると判決した。

最近、テッド・オルソンと私は、カリフォルニア州において婚姻を異性間の物に限定する住民投票提案8号(Prop 8)を違憲だとする裁判をおこした。この事件の重要性において我々は合意している。これは共和党か、民主党かという問題ではなく、また、リベラルかコンサバーティブかという問題でもない。これは、我々の憲法が保障している法の下の平等および適正手続きが、全ての国民に対して実際に保障されているかという問題なのだ。

最高裁は、過去に繰り返し、愛する相手と婚姻する権利は基本的人権であり、州はこれを制限することはできないと判示してきた。1978年、Zablocki v. Redhail事件において最高裁はウィスコンシン州の養育費の支払いを怠ったものが婚姻することを禁じた法律は違憲であると判示した。最高裁は、「本判決は、婚姻の権利は、全ての個人にとって基本的な重要性を持つ」と強調した。また、1987年、最高裁は、ミズーリ州の収監されている重罪人が婚姻することを禁じた法律は違憲であると全員一致で判決した。

これらのケースにおいては、ミズーリ州やウィスコンシン州において制限を裏付ける州法が存在した。これに対して、Prop 8においてはそれの元となる州法は存在しない。男女の間の結婚が、同性婚によって脅威にさらされるというようなことがたまに言われるがまったくお話にならない。

ラブラブの異性愛の男女が結婚を考えている時に、ゲイやレズビアンが同じ権利を持っているからといってそれを考え直すなんてことは、ほとんどありえないくらい想像するのが難しい。同じように、既に結婚生活に問題を抱えているカップルが離婚するかどうかが、近所のゲイカップルが結婚しているか、ドメスティックパートナー同士なのかによって影響を受けるということも、想像しづらい。それに、レズビアンから婚姻する権利を奪うことで、異性の誰か愛してもいない人間と結婚するように強制できるとしても、それによって、誰か愛している人と結婚した時と同じような安定して愛情に満ちた関係が生まれるとは思えない。

また、ゲイやレズビアンから婚姻という基本的な権利を奪ったところで、彼らの性指向を変えることにはならない。仮にそれによって性指向が変わるとしても、それは憲法上認められないことだ。それに、実際には、ゲイやレズビアンの性指向は、肌の色や、異性愛者が異性愛者であるのと同様、神から与えられた性質のものなのだ。またそれは、人種などと同様に、歴史的に差別され、暴力的な差別にさらされてきた。そして、マイノリティの権利が制限されている時こそ、我々の憲法による、平等保障と適正手続き保障がもっとも重要となるのである。

スペインのようなカトリック教国、スウェーデンから南アフリカなどのアメリカと異なる国、更には、カナダのように近い国までが、ゲイやレズビアンの婚姻する権利を認めてきたが、大きな影響は見られていない。変化といえば、人々が愛する人と結婚できることによなったことによる社会の安定と幸福度の増大ぐらいだろう。アメリカでもコネチカット州、アイオワ州、メイン州、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、ヴァーモント州などでは、人権の尊重及び全ての個人にとって婚姻が持つ共通の価値を合理的に見るという観点からは矛盾する「同性婚の禁止」を個別に覆してきた。だが、憲法上の基本的権利は、選挙民の意思による差別の終わりにゆだねてよい物ではない。もしも、我々が少数派の権利を多数派の投票の手にゆだねるならば、社会において憲法の存在意義はなくなるだろう。

Prop 8への52%の支持を経て、カリフォルニア州憲法に書き込まれた同性婚の禁止は、比喩的にも、文字通りにも、何世紀にも渡るゲイバッシングの名残である。

カリフォルニア州は既に、ドメスティックパートナーシップが制定されており、これにおいて同性カップルは経済的においては婚姻と同様の権利を与えられている。そんなカリフォルニア州のおける同性婚の禁止というのは、結局、州が一部の人々に対してスティグマを与えようとしていることを意味するにすぎない。彼らは、他人に迷惑をかけているわけでなく、ただ州に認められていないパートナーと恋に落ち、そして他の市民と同じように扱われることだけを求めているにすぎないのに。

2003年、最高裁は、州が同意に基づく同性愛行為を違法とすることは違憲であると判示した(Lawrence v. Texas)。Anthony Kennedy裁判官は、差別の歴史が憲法上の権利を打ち負かしかねないという主張を否定して、優雅に判示する。「時代は、時に私たちの目を曇らせ真実を見えなくさせる時がある。後世になって人々はようやく、かつて必要であり適切なように思えた法律が、ただ抑圧のためだけに存在したのだと気づくことができる。憲法が存在するかぎり、それぞれの世代の人間は、それぞれの求めるより大きな自由に向かって憲法の理念を発動していくことができる」

同性愛が宗教上間違っていると心から信じている人々はいる--そして、我々の憲法修正第一条は、彼らのそう信じる自由を保障する。だが、同じくこの憲法修正第一条が、適正手続き条項や平等保護条項あいまって、これらの宗教的信念を州法の中に書き込むことを禁じているのである。

ゲイやレズビアンは、我々の兄弟であり姉妹である。我々の教師であり、医師である。我々の友人であり、隣人であり、我々の両親であり子供である。今こそ、彼らに、彼らの愛する人と婚姻できる権利を認めるべきである。いや、もうとっくにそうしていい時期だ。今こそ、何世紀にも渡って誤って導かれた、州によるゲイとレズビアン差別を終わらせ、我々の憲法が全ての市民に対して約束している法の下の平等と適正手続きを実現させる時だ。

Prop 8を支持し同性婚を禁止しようとする側のいい分は、究極的には「同性婚は認められない、なぜなら婚姻とは男と女の間のものだから」というトートロジーにすぎない。だがスローガンは、憲法解釈における本質ではない。法とは、正義についてのものであり、バンパーステッカーに書かれたスローガンではないのだ。



また法律用語など正しく訳せているか自信がないので、興味ある方は原文を読んでください。(何か誤りや気づいた点はつっこんでください)

多数派の暴走から、少数派の権利を守る砦としての憲法の存在意義を指摘し、感情的に同性婚問題を語るのではなく、これが憲法が保障する法の下の平等と、デュー・プロセスの徹底の問題だと冷静に語っているところは面白いです。いかにも憲法原理主義の弁護士らしい主張です。

ただ彼の主張がもっともであることとは別に、彼らが連邦裁判所で裁判を起こしたことについては、以前から批判や疑問も出ていて、それについてはこちらを読んでください

LGBT団体は連邦レベルで憲法判断が下されることを恐れて、連邦レベルの裁判に対しては慎重な姿勢をとってきていたという経緯があるのです。でも、この前マサチューセッツ州も連邦を相手どってDOMAは違憲であるという裁判を起こしたし…なんかがんがん皆連邦レベルに躍り出てきている印象。うーん。大丈夫なの~!?

連邦最高裁の構成が、LGBT団体にとって決して楽観できるようなものではないことに変わりはないですし、これでDOMA合憲判決とかProp 8合憲判決とか出たら本当に落ち込みますが…ここでボイズ弁護士が訴えているような「正論」がとおる日はいつかくるのでしょうか。

私は、vindicateという言葉が好きです。一時は、立法や司法によっても否定される何かであっても、いつか必ずvindicateされる日がくる。そう信じているから今日も誇りを失わず生きることができます。
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