レズ強姦ゲームは「表現の自由」によって保護されるか?

レズのまんこにちんぽをぶちこめ!男のよさを知らない哀れなレズどもに肉棒の味を教えよう!レズどもを強姦し、ペニスのよさを味わわせて、ペニスなしでは生きられない体に強制してやろう!妊娠させて中絶させるモードもあるよ。ぐへへへへ。どうしても言うことを聞かない生意気なクソレズは、撃ち殺そう!シューティングゲームにもなるエロゲー発売!



例えば、上のようなエロゲーが出来た場合、これらの作品を公権力は規制するべきだろうか?こんなトンでもない女性蔑視、性暴力肯定、レズビアン差別を垂れ流すような屈辱的なゲームを作ることが「表現の自由」だと!?ふざけんな!「表現の自由」は弾圧されがちな弱者を守るためのものであり、こんな差別的な表現は「表現の自由」の保護の対象外である!

…?

さあ、皆さんはどう考えますか?
…もともとは、「レイプレイ」問題(女性を強姦、妊娠、中絶させる陵辱系エロゲームがイギリスおよびアメリカの団体からの抗議をうけ、国内でも規制するべきではという議論が巻き起こった)、更には、同じような“問題ゲーム”の例である「ホモ狩りゲーム」について考えていたのだけど、このブログのメイン読者であろうレズビアン&バイセクシャル女性により身近になるように、冒頭のように書き換えてみた。考えるだけで超ムカムカするし、マジで誰かが作ったらと思うと悲しみと怒りがふつふつと込上げる。だがあえてこうやって考えた方が真剣に考えられると思うので、皆さんもおつきあい下され。

レイプレイ問題、ホモ狩りゲーム以降、ポルノ規制と表現の自由についてネット上に溢れた多くの議論を読んだ。全てをフォローしたわけではないが、一つ非常に気になったのは規制賛成派も規制反対派「表現の自由」という概念が実に雑に扱われていることである。

たとえば…。

★セックストーイを売り、アダルトビデオを販売している私ですが、このエロゲーは聞くだけで気持ち悪いです。日本では、児童ポルノの規制があってもアニメは守られています。「表現の自由」は大切なことではあるけれど、しかし、女性の人権がここまで奪われていることを表現することが、「表現の自由」の名の下で守られるべきことなのかどうか。みなさんは、どう考えますか? 

http://www.bababoshi.com/archives/2009/05/_mp3_31.html



北原みのりさんは、これに続けて日本では真の意味では表現の自由が実現しているとは思わないという懸念を表現する。これ自体は非常に鋭い指摘だ。また、彼女はそれに続け、ポルノ女優が実際に傷つけられないような労働環境を整えることを訴えるが、これも非常に正しい。

だがバーチャルポルノであるところのレイプレイに言及した彼女の引用部の論調は明らかに「女性の人権がここまで奪われていることを表現すること」は「表現の自由」の名の下で守られるべきことではないというものであり、私はそれには同意しかねる。

また、miyakichiさんはホモ狩りゲームの存在に触れてこう言う。

あとさー、言論の自由って、公権力によって国民の言論が妨げられることを阻止するために認められているものであって、国民がある特定の集団(それも、不当に低く取り扱われがちな集団)を貶め中傷することにお墨付きを与えるためのものではないと思うんですけどね。そもそも「ゲイはレイピスト」「ゲイを撃ち殺すのはいいこと」というメッセージを世に向かって放つ(しかも、子供向けのサイトで!)こと自体が、同性愛者の「自由」への攻撃だと思います。そうやって人の自由を攻撃しておいて、いざ批判されたら「ボクの言論の自由を侵害するな」って、何その非対称性。もう一度言うけど、ふざけんじゃないわよ!
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20090718/1247886672



ここで問題となっている問題意識を私は全面的に共有するし、ここに書かれている「言論の自由」についての認識も正しいと感じる。

だが、ここで「非対称性」という言葉を持ち出すことは正しいのだろうか?という部分にひっかかりを感じた。ホモ狩りゲームが同性愛者に対する暴力を質の悪いユーモアの名のもとに正当化し、ホモフォビアを無自覚に再生産する、とんでもないものであり、こてんぱんに批判するべき対象であることについては異論はない。それでも、もしこのホモ狩りゲームが法規制されそうになった時、彼らが「ボクの言論の自由を侵害するな」といって抵抗しうるのは当然のことではないか?…そこに「非対称性」という言葉が持ち出されることが私にはよく理解できなかった。この記事に対するブコメなどの反応を見る限り、こういう言説は結果的に「規制」を正当化するような文脈で読まれていると感じたし、そういう文脈で「ここで『表現の自由』を持ち出すのは間違っている」というロジックが使われるのは(そのロジック自体には同意だとしても)、なにかちがうんじゃないかと思ったのね。

…以上のような問題意識のもと、私は一連の騒ぎについて、「表現の自由」という切り口にこだわって書いてみようと思った。

ここで念頭においているのは、あくまで創作物や意見の表明全般。具体的に言うと、女性に暴力的な陵辱ポルノや、同性愛者差別的なホモ狩りゲーム、更にはホモフォビックなヘイトスピーチなどである。これら全てと「表現の自由」との絡みで以下のエントリを書いている。だからポルノ固有の問題などについてはつっこみが弱いかもしれないことをあらかじめ言訳しておく。


■「表現の自由」の原則


憲法21条において「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされる。で、ここで「一切の」となっている通り、この「表現」にはどんなエロ表現だろうと、差別的表現だろうと、暴力的表現だろうと含まれる。それが日本国が原則とする表現の自由の意味。これがスタートライン。でも、もちろん現実的に考えると、表現を何らかの方法で規制する必要っていうのはありえる。その折合いをどうつけるのか?っていうことが問題なんだ。

■誰が、どう規制するのか?

まず、これは法律、条例、政令、命令その他公権力による規制なのか?それとも業界内の自主規制や、Amazonなど特定店舗にての取り扱いをどうこうするという話なのか。「規制反対」という話においてこのどちらかが話題になっているかで、まったく違う。また、公権力による規制であっても、その内容が、制作自体を規制するものなのか?それとも流通に一定の規制をかけるものなのか?という規制のレベルがいろいろあることを覚えておきたい。

■「表現の自由」が問題になる場面、ならない場面

次に「表現の自由」が保障されていることの意味を、もう少し詳しく確認しておく。憲法21条によって保障されている「表現の自由」。だが、憲法というものは、国をはじめとする公権力の規制から国民を守るために存在するのであって、私人間の関係を規定するものじゃない。

わかりやすく言うと、この「表現の自由」も結局は「国をはじめとする公権力」が主体となって市民の表現活動を規制しようとしてきた時に、「いやいや、それはおかしいでしょう」と国家に対抗する為の盾として存在するものなのだ。

だから、「表現の自由」を持ち出して意味があるのは、あくまで「公権力」が規制をしようとしてきた時であって、それ以外の場で--たとえばフェミニストたちに批判をされた時の反論として--「表現の自由だ!」ということはあんまり意味をなさない。

つまり、いわゆる陵辱ゲームに対して、「そのゲームは女性差別的ですよね?」「女性に対する暴力を肯定し、さらにはその暴力を再生産していますよね?」と誰かが批判した場合、その誰かが「だから法律でそのゲームを作ること自体を禁止するべき」と主張していない限りは、その批判への言訳として「表現の自由だからいいんです」ということは的外れになるわけ。

「法規制するべきか否か」という話をしていない段階で「表現の自由」が出て来るのはおかしいっていう話なの。そのゲームを作ることが「表現の自由」の一貫として保障されることは自明の理で、その上で、「法規制するべき」というのとは違う角度で、そのゲーム自体を批判しているわけだからさあ!

(冒頭で引用したmiyakichiさんは文言上は一応そこらへんを注意深く分離して書いてあるし、法規制するべきだとも書いていないのに対し、北原みのりさんは、ここを確信犯的にごっちゃにしているような気がする。ただし北原みのりさんのスタンスを支持している人の一部がmiyakichiさんの文章を頭に血がのぼったまま読んで「そうだそうだ!不均衡だ!こんなのは表現の自由で保護する価値なし!!」と解釈して盛り上がっちゃうことも可能だと思う。miyakichiさん自体は、ゲーム批判に対して「表現の自由」を持ち出して言訳することがズレていることを指摘しているのみであり、このようなゲームが法によって規制されるべきとは断言していないが、「このようなヘイトスピーチないしヘイトスピーチ的ゲームも『表現の自由』に含まれる」ともはっきり書いていないからだ。実際にどう考えられているのかは引用元の文章からのみでは不明だが、もしかしたら北原みのりさん的に「このような表現は『表現の自由』によって保障されない」と考えている可能性もあるかもとは思う。)

大体、ゲームやポルノに限らず誰だって差別的なことやおかしなことを書いたり表現すれば、批判される。その批判に対する反論は「でも、表現の自由だからいいのです」じゃなくて、その批判に対する反論だろ?その反論がめちゃくちゃだったとしたら、そういうめちゃくちゃなトンデモ言説は「言論の自由市場」によって自然とトンデモ認定されて廃れていくはず。

暴力や差別撤廃、人権保護を唱えるような層は、お上が言論の自由市場を制限するようなやり方で介入するのを期待するのなく、逆にそういう言論の自由市場がきっちり機能して、トンデモ言説が淘汰されるような土壌を整える方向を考えるべき。具体的にはそれは…教育なり人々のリテラシーをあげるっていうことになると思うんだが…。

私たちが目指すのはたとえば、暴力的、差別的な表現が法律によって禁止されるような社会ではなく、暴力的、差別的な表現が「はあ?何か違うでしょ?」という目を向けられて、自然と「そういうのは差別だからよくない」という自浄作用が働くような社会ではないですかね。

そしてエロについてはどんなに人からみてキモいエロであっても、それはそれで人が口を出す問題じゃないでしょう。

■「表現の自由」だって絶対ではない
じゃあ、こういうとんでもない弱者の人権を踏みにじるような表現すらも守ってしまう表現の自由って何?

表現の自由は絶対なの?

いや、そんなことはない。

「表現の自由」が規制される場面は、もちろん、ある。どんな権利も絶対でないように、表現の自由も、またそれ自体が、誰か別の利益…他人の人権侵害とか…によってある程度制限されることはある。

そりゃ~いくら「表現の自由」があるったって、真夜中に誰かがメガホンで大音量で「クソレズばんざーい!」とか叫んでたら普通に近所迷惑でしょ?そういう場合は強制的に「やめろ」ってなっちゃうことはあるだろうし。ポルノの被写体が、その撮影に同意してなくって、そのポルノの流通が、被写体のプライバシー権の侵害になる場合とか…いろいろある。

だから、もちろん、場合によっては「表現の自由」も規制されうる。当たり前。だが表現の自由は、いろいろある人権の中でも、かなり根源的なものであり、民主主義を支える非常に重要な権利である。それほど重要な権利を規制するには、相当慎重でなければいけない。

具体的には、その表現の自由に対する対立利益みたいのをよーく考えて、「この利益を守るためなら、規制もやむなし」という冷静な利益衡量の上で、必要最小限の規制を施すべき。たとえば、被害者が実在する実写ものの児童ポルノを規制するべきでは?というのはこれに相当する。

だが、そのとき、法律の定義が曖昧だったり、拡大解釈が可能だったりすると、必要最小限であるべき規制が、どこまでも大きくなってしまう。これは本当に危険です。なんとな~く「これはひどい陵辱ポルノ→規制しる!」みたいな雑な「アンチポルノ」ロジックで公権力が「よくないポルノ」を規制することを肯定しちゃうのって、すごく危険であることを国民一人一人がもっと考えるべき。そういう動きは簡単に「同性愛的表現は自然に反するから規制」とか「ロリコンアニメはキモイから規制」そういう方向にスライドしうるから。

詳しくは、マサキチトセさんによるエントリ「児童ポルノに関する Twitter アカウント『jidouporuno』の中の人の立場表明」の「クィアなカスケードは起きるか」のあたりを読んでみてください。

■初めから一定の表現を保護しない「表現の自由」

さて、上で述べたような、原則「表現の自由」を認めた上で、一定の場合にその制限を認める、という考えではなく、予め「表現の自由」に例外をもうけ、初めから一定の内容の表現に対しては保護を与えないという考え方もありえる。

たとえばドイツは、憲法において反民主主義的な言論は保護しないことを明記している。ナチスを肯定したり、ホロコーストを否認するような言説は「表現の自由」に含まれない。私個人は、このように「闘う民主主義」と呼ばれる「不寛容に対して不寛容」で対処するようなやり方がいいとは必ずしも思っていない。だが、それでも「表現の自由」は民主主義を支える重要な基本条件であるところ、その目的である「民主主義」を直接否定してくる言論は保護に値しない、というその理屈はわからないでもない。(何でも食べる動物が、致死性のある毒は食べないのと同様。食べたら死んじゃうんだから)

だが、民主主義それ自体を攻撃するものではない表現まで、「女性(やその他のマイノリティ)に対して暴力的」だからという理由で、その表現は表現の自由に含まれないと言ってしまえるのだとしたら、そんな表現の自由は、表現の自由でもなんでもないだろう。(何でも食べる動物が、ある食べ物は(それ自体は致死性はないにも関わらず)まずいから食べないと言ってるように聞こえる。食べても死ぬわけでもないのに、食べたくないと言ってる)

もし、そんな言説が本当に通ると思っているなら、その人は、例え口先でどんなに「もちろん表現の自由は大事だけれども…」と言ってるとしても、その大事さが本当にわかっているとは言えない。

■ポルノ批判はとっても大事

ここで強調しておくと、私は「こーゆうポルノは女性に対する暴力!これはひどい!!!ひどすぎるひどるぎるふざけんな!卑劣だ!レズビアンに対する無知と偏見と暴力に満ちあふれている。許せない!作った奴出てこい!」っていう声自体はすっげー大事だと思うし、その感性を否定したいわけではない。そういう批判は大々的にしてよろしい。

だが、その批判が「だからこういう表現は『表現の自由』として保護されない→検閲するべき」とかいう方向に行くことはオカしいといっている。そうやって「表現の自由」の問題にした瞬間、ポルノ批判派は話をそらし、不利な方向にもっていってしまっている。それは頭のよいやり方とは思えない。

ポルノ批判派はポルノを批判するのはどんどんやってほしいが、簡単に「こんな表現は『表現の自由』で保護されない」と言ってはいけない。またそういうポルノによって欲情するような欲望自体をさばいてもいけない。

また、ポルノを作っている側も内容の暴力性について批判された時に、「表現の自由だからいいんだ」という反論をするのはズレていることを自覚するべき。「表現の自由」というキーワードは法規制に対抗する言論としてのみ有効で、その他、表現がはらむ問題性を正当化するものではない。

ポルノを批判された時、ポルノを擁護する側は、「ポルノはそれに対応する欲望を満たす為に存在する」というその存在意義をただ訴えるしかない。具体的な人権侵害がない限り、欲望と、それに対応するポルノを禁止することは誰にもできないのだ。具体的な人権侵害がない限り、欲望と、それに対応するポルノを規制することを許すべきではないのだ。

■「『表現の自由』を言うことで、結局弱者抑圧の構造が温存されるのでは?」という懸念

もちろん、私も、現実において、強者と弱者の間に圧倒的な不均衡が存在している中で一見公平に「表現の自由」を適用する場合、結果的にそれはやはり不均衡な現実を隠蔽、許容し、更に再生産することになりかねないというのは理解する。

私も普段どちらかというと(不本意なことに)どうやら社会的マイノリティの立場から発言することが多いため、上辺の平等やらなんやら物わかりが良さそうな寛容な態度が実は現状維持的で現状に対する異議申し立てをしている弱者に対して強烈に抑圧的に働きうるというのは切実に感じている。

陵辱ゲームは、実際に女性に対する暴力を容認する言説であり、それがまかり通ることは「それはゲーム」「たかがポルノ」だけで留まらない現実の効果を現実社会にもたらすことは事実だろう。(ホモフォビックなゲームも同様。ステロタイプに描かれたゲイに対する暴力を快楽として消費するようなゲームが何の問題視もされず堂々と消費されているような社会がゲイにとって心地いい社会のわけない)

そういう、<ある表現が社会における何を反映してるのか?>には常に注意を払うべきだし、もしそこに社会のゆがみなり暴力なり不均衡が映し出されているのであれば、それに対しては厳しい目を向けるべきだ。

だが、そういう表現を批判する時に「こういう表現は『表現の自由』の枠外だから規制してオッケー」というのは、あまりに稚拙な理論だし、採用するべきではない。なぜなら、副作用が大きすぎるし、なにより表現を規制したところで、彼らが真に問題にしているはずの現実界における不均衡は是正されないのだから。

「『表現の自由』を言うことで、結局弱者抑圧の構造が温存されるのでは?」という懸念に対しては、こう問い返したい。

「彼らの『表現の自由』を奪ったところで、結局弱者抑圧の構造は温存されるのでは?」

「オカマが嫌いです」と誰かが発言した時にそれを「ヘイトスピーチ」認定し「頭の中で差別するのはいいが、それを口に出すのはNG」とその表現行為自体を規制すれば、表面上は差別行為がなくなったように見えても、実際には真の問題は隠蔽されたまま、暴力的な構造は何も変わらず温存されていく。本当に必要なのは何か別なものなんだよ。

ではその本当に必要なものは何か?ということについては何を念頭においているかによって(例:陵辱ポルノ、ヘイトスピーチ、児童ポルノ?)かなり変わって来る。思いつくままに挙げるなら、性教育の充実、被害者救済策の充実、差別撤廃政策…などだろう。が、具体的にはもっと勉強してまた改めて書きたいと思う。

■結論:表現規制に対する自分のスタンス

・ポルノについて
私はポルノについては、一定の法規制はありえると思っている。民間レベルの業界ガイドラインなど自主規制がうまくいかない場合は補完的に公権力による規制が必要な場合もあるだろう。そういう意味では、私はポルノ規制に対してはある程度賛成の立場である。主には表現自体を規制するというより、その流通の過程で一定の規制を施すゾーニングのようなやり方によって。だが一部のポルノについては、その表現自体が規制されるべき場合もあるだろう。そういう意味では規制に賛成する場面があるだろうと思う。

だが、規制賛成派の一部が「こんな表現は『表現の自由』に含まれない」というロジックを使っていることに対しては徹底的に反対しておきたい。

また、ポルノ規制派に対しては、「ポルノの奥に横たわる問題に対しては、公権力による規制が唯一の解決では決してないだろ!」ってことを強調しておきたい。公権力による規制を実現させて「目的達成!」なんていのはちゃんちゃらおかしい。(特定の)ポルノを問題視する人々は、そのことを自覚し、お上に頼りすぎることなく、問題性を告発してほしいもんである。

・児童ポルノ禁止法案について

先日廃案になったこれだが、単純所持禁止というのに、直感的には反対。だが、場合によってはありえないでもないかなとも思っている←ここらへんについてはまだ勉強中で考えがまとまっていない状態。

ただ、いろいろな議論を見ていて圧倒的に共感を覚えるのは、児童ポルノ禁止法反対派の言説である。実際、本エントリによる私の主張を児童ポルノ規制に即して展開するならば、font-daさんの「規制反対派」の分類によるところの

1.表現の自由派
2.真の児童保護派
4.ヴァーチャルポルノ擁護派

の三つが合わさったようなものになると思う。

つまり、私の主張というのは、おそらく児童ポルノ法改正反対派の主張と非常に親和性が高いはず。だがそれらの主張を強く打ち出しつつ、私は結論としては、児童ポルノ(に限らず何らかのポルノ)の単純所持を禁止することに対し「必ずしも常に反対ではとは限らない(規制に賛成する場合もありえるかも)」という立場。すごいねじれているように見えるかもしれませんが…。児童ポルノ改正法案については、法案の中身もよくわからず、勉強不足なので、はっきりとは言い切れないが、表現の自由マンセーな立場からも、利益衡量の結果、単純所持規制やむなし、となる場合がないとは言い切れないと思っている。

ま、児童ポルノに関しては、ペドファイルの問題とか絡んでくるので、これについてはもう少し勉強して考えたうえで、また改めて児童ポルノにしぼったエントリをするかもしれません。

児童ポルノ禁止法改正に反対するための情報
http://twitter.com/jidouporuno ←ついったーやってる人フォロー推奨です!

・ヘイトスピーチについて
ヘイトスピーチについては、ヘイトスピーチの発話そのものを禁止するのには反対。だが、ある種の差別意識と結びついた犯罪、不当解雇などについては、通常のケースよりも強く罰することを予め明文化することにより、差別撤廃のための政策とすることができるだろうと思っている。
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comment

公権力によって暴力的・差別的な表現を規制するのではなく、社会が自浄作用を働かせ、抑制力を効かせられる方向にもっていくことに賛成です。
そして、ゆうさんがおっしゃる通り、社会に自浄作用力・抑制力を持たせるためには、教育によって必要な素養を人々に埋め込む作業は欠かせないと思います。特にメディア・リテラシー教育は重要ですよね。
それから、凌辱ポルノが女性への暴力を容認し、暴力を再生産するかどうかについて(強力効果論)には、少し異論があります。
凌辱ポルノを見る人の置かれた「環境」と「人格的素地」など複数の要因によって、暴力の再生産の可能性は変わってくると思います。必ずしも強力効果論が正しいとは思えません。
私自身は凌辱ポルノに不快感を覚えますが、公権力による表現規制には賛成できません。
とても興味深い題材で、考えさせられました。
  • 2009/07/30
  • トモ
  • URL
  • Edit
大筋賛同できますが賛同できない点が二つあります、しかしこれは自分の意見なので外れかもしれません
所謂女性差別と批判されるゲームに対する反論は、やはり実在の人権に関わる以外は「表現の自由だからいいです」であってると思いますよ
例えばヴェニスの商人が宗教を貶めたとか、差別したとなれば結局それに対し反論側は「お話に何むきになってるの?、表現の自由だろ」としか反論出来ませんよ、この議論のスタートラインからして両方の主張が違いますから、噛み合いませんしこの時点で反論する側は彼らor彼女らに見る側演じる側の理屈を理解してもらおうとはおそらく思ってもいないでしょう
それと一つ足らないと思うのは見る側作る側の視点です、女性だって陵辱ゲームやってるかもしれないし作ってかもしれない(現実に作り手には多くの女性がいます)、彼女らはどういう扱いになるのでしょうか、女性差別をしてるのでしょうか?
それとも「道を間違った人間」とか「男性に洗脳された被害者」とかになるのでしょうか?
道徳教育はとても結構なのですが、こういう自体が起こりうるのでイマイチ賛同できません
よって個人の良識とゾーニングに任すべきだと思いますのですが
  • 2009/07/31
  • 恥ずかしがり屋
  • URL
はじめまして、たいへん興味深く読ませていただきました。
とても簡潔にかつ分かりやすくまとられている良エントリですね。
ご意見も概ね同意、共感できるものでした。
児童ポルノの単純所持の問題など簡単には答えの出せない部分もありますが、
これをきっかけに自分も色々考えていきたいです。

>恥ずかしがり屋さん
横レス失礼いたします。
ええと…イチカワさんは文中で

『わかりやすく言うと、この「表現の自由」も結局は「国をはじめとする公権力」が主体となって市民の表現活動を規制しようとしてきた時に、「いやいや、それはおかしいでしょう」と国家に対抗する為の盾として存在するものなのだ。』

とお書きになってますよね。
だからもし、陵辱ゲームを批判する側が単なる批判に終わらず「規制しろ」「法律で禁止すべき」と言ってきたのであれば、「表現の自由」を持ち出して反論するのは間違ってないと思います(し、エントリ内でもそのように書かれていると読めるのですが。『その誰かが「だから法律でそのゲームを作ること自体を禁止するべき」と主張していない限りは』という部分がそれにあたるかと)
しかし、批判する側が単に「この表現は女性差別である」「これは良くないゲームである」とだけ言っていて、禁止や規制の推進までいってないのであれば、別の切り口からの反論が必要なのでは?というのがこちらのエントリの趣旨ではないかと思いました。
陵辱ゲームを批判する側には規制や禁止の推進をも同時に主張している場合が少なくないのかもしれませんが、一方で規制自体は主張せず単にその「表現」だけを批判している人もいるわけですし、その辺を混同したまま脊髄反射的に「凌辱ゲーが批判された!」→「表現の自由に対する挑戦だ!」みたいな反論を展開してしまうのは得策ではないような、ということかと。
(…という風に私は理解したのですが。もし間違ってましたら訂正してください>イチカワさん)

それと後半で触れられている消費する側や作り手の問題に関してですけど、「凌辱ゲーの“表現”そのものを批判すること」と「消費する側を批判すること」「作り手を批判すること」はそれぞれ分けて論じた方がいいような気がします(これは消費する側&作り手が男性の場合でも女性の場合でも同じ)ちょっとこの辺の事を巧く説明できなくて申し訳ないんですけど、こんな意見もあるって感じで受け止めて貰えれば幸いです。

長文失礼いたしました。

  • 2009/07/31
  • mame
  • URL
  • Edit
はじめまして
勉強がてら楽しく拝見しています

>恥ずかしがり屋さん
私もいきなり横レス失礼します

私もmameさんと同様に「表現そのもの」「消費する側」「作り手」それぞれへの批判は分けた方がいいんじゃないかなぁと思います

ついでにいうと、イチカワさんが批判しているのは女性差別(~的なもの)そのものであって
「女性差別をする奴ら(又はそういったポルノ等を作る/消費する人々)=オトコだけ!(女はしない)」という形はとっていないように感じました
むしろイチカワさんは女性自身でも差別を内面化して(、再生産して)いる人がいる事を前提に書かれているように思います
(これは異性愛主義についてのエントリ(12の質問のあたりだったような…)からそう考えました。異性愛主義は異性愛者だけのものではない、同性愛者自身にも内面化している人は一杯いる、と書かれていたので)

そう考えると、「男性に洗脳された被害者」という考えではないんじゃないでしょうか…どうでしょうね


長くなってすみません
文章ヘタだなぁ
  • 2009/08/01
  • リトウ
  • URL
  • Edit
Re: タイトルなし
●トモさん
コメントありがとうございます。

初めに私のスタンスをもう一度書いておきますが、私は公権力によるポルノの規制を一定の場合に支持します。特に児童を相手とした実写もののポルノ(児童ポルノ禁止法でいうところの(一号ポルノ)については問題なく規制されると思っています。(それが単純所持禁止という形で規制されることには必ずしも賛成でありませんが)

そういう意味で、私は「公権力によって暴力的・差別的な表現を規制」に必ずしも何でも反対という立場ではないということをまず確認させてください。

もっとも、一番重要なのは「社会が自浄作用を働かせ、抑制力を効かせられる方向にもっていくこと」であるとも思っており、その点ではトモさんに同意です。

次に、凌辱ポルノが女性への暴力を容認し、暴力を再生産するかどうかについて(強力効果論)についてですが、すみません。私は強力効果論についてよく知らないのですが…。犯罪学との絡みでの議論だと捉えてよろしいでしょうか。

私が「暴力の再生産」と言った時の「暴力」とは、必ずしも具体的な暴力行為や、犯罪というわけではなく、もっと観念としての「応力」を想定していました。

陵辱ポルノの流通と性犯罪の誘発の関係は確かに簡単に立証できないことであり、 因果関係はないかもしれません。ですが例えば残酷ゲームや陵辱ポルノが流通する社会において、犯罪という具体的な形にならない形での「女性に対しての暴力的な空気」というのは確かに存在するのではないか?というのが私の考えです。そして、その「暴力的な空気」を生み出してしまうことが、私がブログのエントリーで「暴力の再生産」という言葉で意味していたことでした(ここらへんについてはかなり手探りで発言しているので、どんどんつっこんでください)

例えば、同性愛差別的なゲームが存在するとして、そのゲームの性で、実際の同性愛差別事件や、ヘイトクライムが増えるか?というと、確かにそういう蓋然性は低い気が、私はしてまして、まあ、じゃあここでは仮に、「ホモ狩りゲーム」と社会における実際の差別行為の発生件数は関係ない、というふうに仮定して話をすすめましょう。

(そして、付け加えるならば、例え、特定の表現と犯罪の因果関係がかりにあるとしても、犯罪予防という見地から、その表現を規制することに対しては、同じく慎重であるべきだと思っています。つまり、私は一連の表現物規制において、実際の犯罪における影響とかはあまり考えておらず、もっというと、法的に考えた場合は、そういう犯罪予防的な見地からの立法は極力避けるべきではないかとすら思っております。私は一連の議論についてメディア論的な立場にたっておらず、法的規制の根拠の建て方という1つの切り口からこのエントリを書いたにすぎません)

そのように、表現と犯罪誘発が無関係だとしても、例えばある表現が、社会に存在しているというのは、その社会がその表現に対して表現する余地を与えている…ということが私はできると思うのです。そして、その実際の影響力は小さなものに留まるとしても、それを「暴力」と呼ぶことは私はできると思い、それを「暴力の再生産」という表現で表しました。

必ずしも、暴力表現を、実際の暴力行為と同視したり、暴力表現が、具体的な暴力行為を誘発すると主張しているのではなく、とある暴力表現が、そこに存在するだけで、それは社会的にみて一種の<暴力>の許容である…というような問題意識です。

もちろんそのような「空気」的な<暴力>を法律で規制するべきとは思いませんし、この私の考える<暴力>の再生産をどう取り扱うべきなのかについては、わかりません。今後考えていきたいと思っています。

長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。

●恥ずかしがり屋さん
個別的な指摘についてはmameさんとリトウさんが的確に書いてくださったので、それを読んでください。

あと、一点だけ。作り手については今回の議論では考慮していませんし、別の議論として建てるべきだと思っているのですが、

>女性差別をしてるのでしょうか?
>それとも「道を間違った人間」とか「男性に洗脳された被害者」とかになるのでしょうか?

という部分についてですが、私はそうは思いません。

恥ずかしがり屋さんが結論として導きだしている個人の良識とゾーニングというのには、賛成です。プラス、その「個人の良識」のまともさを担保するような、性教育の充実やメディアリテラシーを高める処置なども必要でしょうね。

●mameさん&リトウさん
的確なフォローコメントをしてくださって、ありがとうございます。
感謝しております。
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