「可愛さ」なんてただの骨と皮と肉の構造

外見って本当外見でしかない、ということをしみじみ痛感する。

私は、「可愛いアイコン」リストを作るくらいなので、結構メンクイだ。人の顔を描くのも好きなので、誰かを見ると、まず顔に注目する。そして、ぱっと見て、「かわいいな!」とか「美人だな!」と思うと好意を抱きやすい。男性に対してもそう。イケメンだと、デフォルトで好意を抱きやすい。ここで言う「好意」は恋愛とかと関係なく、人間関係のベースとなる好意。例えば、相手がぱりっと清潔だったり、感じがよかったりする時にも感じる。

だが、同時に、そういう外見からオートマティックに想起される好悪というのは、完全に任意のモノであり、彼/彼女の人格とはほとんど何の関係もないということを最近痛感している。

誰かの外見が“いい”と思って、胸がきゅん!としたとしても、それは彼女がたまたまそういう外見を持っているというただそれだけの話。彼女が、もし全然違う顔だとしても、私は彼女にこういうように惹かれるだろうか?そういう惹かれ方じゃなければ、相手のことを好きだとは言えないんじゃないか?

具体例を出すならば、こう。Lの世界でシェーンが大好きな誰かがいるとして。シェーンはオシャレだし友達思いだしセクシーだし…とかいろいろ理由があると思うけど、結局「シェーンがシェーンの顔をしてるから」というのが、一番大きな理由の一つであって、その他の理由は全て補足に過ぎないと思うのよ。(その証拠に、シェーン・ファンは、ほぼ全員ケイトが好きだし、アリス・ファンはほぼ全員リーシャが好きでしょう?)シェーンが、もしもジェニーの顔してたら、それでも好きと言えるの?(ジェニーが、もしもシェーンの顔をしてたら、でもいい)きっと言えないと思う。

それを責めたり批判したいのではない。目が見える人が、人間関係においてビジュアル情報に大きく頼るのは、ごく自然なことだと思う。(人は見た目が9割とか言う本もあったよね!)

(私の大好きな映画の一つである『バニラ・スカイ』にもこのテーマは含まれている。映画ではハンサムな成功者の主人公(トム・クルーズ)が事故で顔面を大破される。この事実が以下に彼自身また周りの人物に影響を与えていくかが残酷なまでに描かれている)

ダークな肌は、アクティブに見えるし、長いまつげで俯けば、憂いげに見えるし、濃い眉毛は自信たっぷりに見るし、キュっとひきしまった唇は賢そうに見える。ニコニコしてればフレンドリーに見えるし、むすっとしてれば、怖く見える。まゆげがつりあがっていて、目とくっついていると、真面目で深刻そうに見えるし、逆にまゆげがハの字型で、目から離れているとのんきそうに見える。目が一重でつり上がっていると、冷たく見えるし、目が二重で垂れていると、親しみやすく見える…。

結局私が誰かを見て想像する「内面」の多くは、彼らの「外見(主に身体的特徴)」から導きだされるティピカルな自動的反応にすぎない。

もちろん、ある外見がどういう印象を想起させるかは、文化的に左右されるし(例えば、「たれ目」の意味するところが世界中で共通だとは限らない)、長い人生の中では、「外面が内面に影響」を及ぼすこともあるだろう(例えば、外見が原因でからかわれつづけた子は、性格にも影響がでるだろうし、どういう服をどのように身につけるか、というような身だしなみは、ある程度その人の性格を表すだろう)。

それでも、誰かの身体的特徴からその子の内面が推し量れる、というよりは、誰かの身体的特徴から想起されるその子の内面は、ほぼ幻想にすぎない、と言うほうがより真実に近いと思う。

特に、夜遊びの場で誰かと笑いあった場合にはそうだ!私が誰かに対してもつ第一印象は、全部そういう外見的要素からオートマティックに導きだされる脊髄反射的判断の組み合わせにすぎなかった!

このように人の判断において大きな影響力を持っている「外見」だが、ここで悲劇的なことは、“誰かが「そういう外見」に生まれたことは全くの偶然にすぎない”、ということ。「そういう外見」に生まれる、ということは、例えば、あなたが、その年に何番目に生まれた子供か、というような、完全に偶然的で、完全に無意味な要素にすぎない。

それなのに、目の見える人々は、そんな偶然的で無意味な「外見」に多くの意味を付与し、異常なほどにそこから駆り立てられる情動に身を任せてしまう。本来限りなく「無意味」に近いはずだった「外見」は、今現在、現実の人間関係において実質的に力を持ち、よって無視できないほど「意味」を持ってしまっている。

そんな、現実においては、誰かが「そういう外見」に生まれたことはーその外見が社会的に美しいとされていようが醜いとされていようがーその人がとらわれている一種の「檻」であり、その人が、その人自身として周りと触れ合うための「障害」とすらなっているのではないか。

私が誰かに対して「萌え」たり、「可愛い」と言ったりする時、それは、相手の美しさを単純に讃えているのではない。私が誰かを「可愛い」という時、私は相手を人間としては見ていない。まるで宝石の鑑定士の目、まるで、舞台の上に並ぶモデルを選ぶになっている。

それはそれで楽しいのだが、楽しみながらも、私はどこかで、相手の外見の魅力にとらわれている自分を意識するし、そこで不可避的に生じるコミュニケーションの限界に諦め/哀しみ/申し訳なさを抱きつつ、内心肩をすくめている。

私はそういうのを超えたところでコミュニケーションしたい。そういうのを超えたところで、誰かを好きになりたいし、相手からも好きになってもらいたい。

可愛い子を見てると幸せな気分になるし、「可愛い。あなたの顔が好き」と言われることは確かに心地よい。虚栄心を満たしてくれる。でもそこで止まってしまうのは虚しい。私は相手の顔が相手の顔じゃなくても好きになりたいし、私が私の顔に生まれてなくても愛されたい。「外見が自分の好み」とか「可愛い」という要素は、あくまで“ついてたらラッキー”程度のおまけでしかないのだ。
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確かに… そう考えると、私は彼女と出逢う前に、容姿を 動く仕草を 醸し出す雰囲気を この目で確かめる以前に ネット上や 電話での言葉の選び方や 話し方 声 文章だけで 限りなく現在とほぼ同等の愛情を養ったことが不思議に感じる。
愛情が育まれる過程にビジュアルが関係しなかった分、内面的な部分で 私の心が彼女を決めたから、彼女が例え今 禿げたり 太ったり 顔立ちが変わったとしても 大したことじゃないっても 今は思える
けど… 逆もあり得るのかな。ビジュアルを知らないで 対面せずに その人に触れもできないバーチャルな世界で ビジュアルを勝手に想像し 印象から創りあげた その人となりを持って実際に出逢った時や会う時間を重ねる度に、違和感や 簡単に風に吹かれて消えてしまうような出逢う前の好印象…って実感しちゃうこともあり得るだろうし
外見 内面 どちらが 変わったとしても、或いは 自分が知らなかった新しい外見 内面に遭遇する状況に出くわしたとしても 揺るぎなく 一個人の尊厳を最優先できる人との出逢いって 理想だなぁって想う。
自分は今まだ遠距離状態だし、将来日常的に互いの存在を今以上に生々しく実感できるような距離感で生活できるようになった時、魂というか、内面も外見も、どちらがどうであっても尊重し合えて、補えたり、成長できたり、乗り越えられる素敵な反応をし合える存在でありたいなって願う。
しかしな、、、
時々、似たようなことを考えます。

しかし、、目の見える人が社会の多数派である現世界ではw、『内面』の多くの部分は『外見』以外の何から構成されんだ?派です。
(まぁ『内面』が先天性よりもその社会・文化的影響によって構成される。前提ですがw)

『「可愛さ」なんてただの骨と皮と肉の構造』←このフレーズ良いww
んーー、なんだろな、時々、多くの人は容れ物が違う中身は無印人間って考えます。初めはね。そっから色づけされていくようなイメージ。(←分かりづらいか。。)
ま、それだけではないんだが、、、面白いです。
  • 2009/11/14
  • mo
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