胎児の生存権と中絶について

以下の文章は、中絶について書いたエントリ「笑えないジョーク ーアメリカの医療保険改革と中絶についてー」に寄せて頂いたSiestaさんのコメントへの返答です。なぜかコメント欄に書けないのでこちらに書きます。以下を読む方は上のエントリ及びコメント欄にも目を通してください。




コメントありがとうございます。

はい、Siestaさんが個別の「ケアの問題」に興味を持ったうえで、前回のコメントを書かれたことはすごくわかりましたし、書いてある内容もとてももっともなものだと思いましたよ。私もケアの問題について話すとしたらSiestaさんの意見にとても賛成です。

さて、どこからが生命か。難しい問題ですね。

私もこの問題については、答えというものは持っていないのですが、かつて、中絶について調べた時にどこからが生命とされているのかという議論みたいのを調べ、それこそ、受精の時からだ、とか生まれた時からだ、とか無数の段階において論点があるのを知りました。

「どこからが生命か」というのは、確かに中絶のみならず、多くの場面で問題になります。もちろん生命の終わりについても議論があるのは、ご存知の通りで、脳死や尊厳死もそうですよね。私はこれに対しても明確な答えは持っていません。

(個人的には脳死については、母方の祖父がこれに近い状態になり、その時に終末医療について考えたことはあるのですが…一般的な「生命の終わり」がどこか、という意味では正直「わからない」です。というかまだ恥ずかしながらじっくり考えていないといった方が正しいかもしれません)

私は、これらの「生命」問題は、中絶や尊厳死問題のみならず、死刑や戦争なんかにも関わってくると思います。なぜなら、確実に「生命」であり、「生存権」があることに疑いない存在を殺すことも、一定の状況下で「合理化」されているのが私たち(Siestaさんと私)が知る現状だからです。私たちは 「『生命』である→すなわちそれを絶対に殺してはいけない」というルールのある社会には生きていないと思うのです。個人的にそれを是とするか非とするかはさておき、時に社会は、生命を一定の条件下で奪うことを合理化してきたと思います。

そういう意味で、「どこからが生命か」「どこから胎児の生存権が発生するのか」という問いはーこれ自体は非常に面白く興味のつきない話題ではあるのですがー、それは、それによって、社会が中絶を禁止するべきかどうかの答えがでるような論理的な関わりを持つものではない。むしろ、このトピックを中絶の権利の議論において持ち出すことには、慎重になるべきです。女性の自己決定権を社会が保障する手段としての中絶の話をしている時に、「どこからが生命か」という議論を持ち出し、胎児の生命を奪うことに対する女性の罪悪感を刺激する、というのは、中絶反対論者がよくやる手段です。(もちろん今回Siestaさんがそれをしているとはまったく思っていませんが)

「胎児の生存権」は確かに中絶と深い関係があるトピックではあるけれども、あくま別のレイヤーの話であることを意識し、そこを不用意に混同することは避けるべきだと思います。

ここで確認したいことは、中絶反対派が胎児を生存権のある生命と考えており、中絶賛成派が胎児を生存権のある生命だと考えてない、とかそういう単純な構図ではない、ということです。

中絶反対派も、どういう場合に中絶に反対するのかについてはいろいろなスタンスがあるし(全て一律ダメとは限らない)、中絶賛成派の中にも胎児を命だと考え、最大限に尊重するべきというスタンスの人もいるのです。
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