中山可穂の『ケッヘル』と適応

中山可穂の『ケッヘル』を数カ月かけてようやく読み終えた。読むのに時間がかかったののではなく、途中読むのを中断しており、再開しようと思うまでに時間がかかってしょうがなかったのである(私は本を読むのはわりかし速い方だ)。

主人公が、人妻と運命的な恋をしたり、ヨーロッパの旅先でいとも簡単に魅力的な女性と恋愛関係になったりという、中山可穂のお得意な芸風は健在。更に今回の作品は、エンターテイメントとしての要素が多くなっており、主婦レズ的な運命の恋愛小説「以外」としても十分楽しめる作品になっている。ヨーロッパを舞台にした、西本京太郎的旅情ミステリ的要素、2つのストーリーが同時並行で語られる村上春樹的構成(文体も春樹的)、年上の女性と中学生男子の恋の物語、少女と少年の恋物語、学園での青春物語、学園の仲間内での友情と裏切りの物語…果ては、多重人格から、フリーメイソンまで!ちょっと勘弁してと言いたくなるくらいのてんこ盛り小説である。いろいろ出てくるので途中お腹いっぱいになり、休み休みじゃないと読めませんでした。回収されるのか?という伏線が次から次へ出てくるので頭が混乱するんですね。でも、なんだかんだいいつつ、中山可穂の今までの作品の中で、もっとも気に入った作品の一つになりました。

しかし、中山可穂は本当にロマンチストだなーと持った。なんというか、彼女は…というより、彼女の描くキャラクターたちは恋愛に絶望していない。意地悪い言い方をすれば「懲りない」。

私は今日、Twitterでもひとしきりつぶやいていたが、恋愛に対して絶望している。絶望というのはややドラマティックにすぎる言葉かもしれない。うーん。期待していない。

私は、今までの人生の中で『カップルは必ず別れる、人は必ず浮気する』というシニカルな恋愛観を身につけてしまった。運命の恋とか、人生最後の恋というのを信じられない。できないから信じられないのか。信じられないからできないのかもしれない。ニワトリが先か、卵が先か?わからない。

別に誰かが悪いというわけじゃないですよ。

誰かが、可愛くないとか、誰かが稼ぎが悪いとか、誰かがそばに住んでないとかそういう誰かの「足りない要因」のせいで私がこういう風に感じてるわけじゃないです。無理やり原因を探すなら、今までの不幸な恋愛経験全て、期待して、裏切られ、期待して、裏切られ、その繰り返しに対して、私が「適応」したことと言えるかも知れません。

ねずみも迷路の中で電気ショックを与え続けられると、その道を避けるようになります。私にとって恋愛に期待しなくなったというのは、悲しいことであったり、何かを失ったというわけではなく、このしょーもない世界を生き延びるために私が生物として採った手段なのだと思います。電気ショックを与えられても与えられてもその道を突き進むねずみ。そういう生き物はやがて死ぬでしょ。私の方が長生きをするはず。そういう意味で生物としては中山可穂の小説に出てくる人物と私では私の方が優れているのかもしれません。でもそんな形で長生きするのもあんまり嬉しくないような。寿命少しくらい縮んでもいいので、思いっきり最後にいい恋をして死にたいです。
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comment

確かに生物としては、危険回避する方が優れてますよね、きっと。

でも私も回避してばかりで、変に長生きしてしまいそうで怖いです…

中山可穂はいつも情熱的で、羨ましいと思う。その分傷も多いのでしょうが。
  • 2010/10/14
  • kai
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