あの頃憎んでいた<大人>に自分がなってた

自分で自分の限界を決めていたことに最近気づいた。

何もわからずただつっぱしっていた時期を過ぎ、
変な意味で、<大人>になって、
これくらいのことをやれば、これくらいはいくだろうな。とか
うーん。あそこには手が届かないな、とか
妙に予想ができるようになってしまい、
無理をせず、そこそこの結果を出すようになってしまった。

仕事にしても、
どのマーケットをターゲットにして
どういうコンセプトで、
どういうサービスを提供したら、
これくらいは稼げる、的な計算をするのが癖になってしまい、
本当にやりたいこととか、自分が好きなことで独立したい!的な話を聞くと、
「いいね。だけど…」って下手に現実的な予想をしてしまっている自分に気づいた。

それは私がかつて一番憎んだ態度だったのに。

あれは、7年前の東京で。

私はその時、当時つきあっていた元カノと一緒にアメリカに引っ越したいという計画をたてていた。その計画を、高校時代からの友達であつまったパーティでうちあけると、「そんなことできるわけないじゃん!」と呆れたように即答した子がいた。その子は、高校時代から学級委員で、部活でもキャプテンをするようなしっかりした子で、学校の教師をしてた。で、その子が、できるわけないじゃんwww!と即答したことで、私は一瞬めっちゃむかついた。確かにその時、ビザもなければ、仕事もどれだけあるのは謎な状況だった。だから、普通に考えたら不可能って思うのは無理もなかったかもしれない。でも、私はそういう決め付ける態度に対してすごく反感を覚えた。私はできるって思ってた。それは、別に自分が強いからとかじゃなくて、その頃の元カノのことをめっちゃ信じてたから。好きなだけじゃなくて、その子の能力とパッションと強さを尊敬してた。この子と二人なら、世界中のどこにいっても絶対やっていけるって信じこめてたんだ。別れたらどうしようとか、こっちきて、お金稼げなかったらどうしようとか、ちっとも心配してなくって、全く不安はなかった。世間知らずだったってだけなのかもしれない。でも自分は本当にそう思い込んでた。

それから、2年くらいたって、実際にアメリカに来ることができた。でもアメリカに来る前に、「絶対別れないはず」って思ってたはずの元カノとは別れてしまい、いろいろなことが予想とは違う方向に進んだ。

現実を学んだ私。

学ぶというのは、それはただ、知識が身についたという話じゃなくて、状況をイメージできる力のことだと思う。この先どうなるのか?こうやったらどうなりそうなのか?どうすれば、この問題は解決できるのか?どうすれば自分の手にいれたいものは手にはいるのか?というイメージ力。

そのイメージ力は役に立つ。
でも同時に、そのイメージ力が、自分の「できる」という範囲の限界を決めているんだと感じるようにもなった。

人にあった時、一瞬でその人をプロファイリングして、

「ああいう人達とは、仲良くなれない」
「こういうタイプの人とは共通点が多いから仲良くなれそう」

とか思うことも増えた。

それは単に自分が創り上げた思い込みにすぎないのに。

自分が心を開かない時に、相手から心を開いてくれないことを不平に感じることはフェアではない。

気づかないうちに、頑固で、偏見にまみれた、小賢しい大人になってしまっていた。

もっと自由でいたい。

パッと見で「そんなの無理だよ」って思うことは簡単。
でも、本当はそうじゃないことなんていっぱいある。

「できる」っていう信念をもって考えれば
一見不可能、って思えることでも、
工夫して、実現することは充分に可能。
そこには必ず道があるはず。
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