アナログカメラはタイムカプセル

私はたまにフィルムカメラで写真を撮る。でも、面倒くさがりなので、なかなか現像しない。ようやく現像した写真を見るのは、まるでタイムカプセルをあけるようだ。
この前、現像したフィルムには、去年のメモリアルデーから、年末までの写真が入っていた。元カノとつきあっていた間の写真だ。友達とBBQをした写真や年末に旅行した写真。でも一番多かったのは、去年八月に一度別れていた最中に撮った写真だった。

その時のことはブログにも書いた。

別れ話がでてから、すごく辛くて……。まだまだ誤解されてるから、それを解いたらきっとわかってもらえるって思ってた。彼女と、ゼッタイ別れたくなかった。毎日泣いてた。そして彼女と公園で遊んだりしながらも、側にいるのに、つきあっていない、っていう状態が辛すぎだった。彼女も辛かったと思う。

その後、長い長い手紙をお互い交換して、二人はやり直すことになれた。その時、本当に嬉しくてたまらなかった。その大きな喧嘩のすぐ後から、私たちは一緒に住む計画について話しあいはじめた。

その後、辛いことがあっても、私はその八月のことを思い出すと、なんでも我慢できた。どんなに喧嘩をしても、どんなに「幸せじゃない」って感じることがあっても、私は、もう彼女を失いたくなかった。一度別れた時の喪失感を覚えていたから。彼女をもう一度失うなんてことはもうゼッタイにゼッタイにゼッタイに経験したくなかったから、どんなことがあっても彼女の手を離したくない、と思っていた。

八月に書いたブログエントリーを読みかえしては、彼女さの大事さを思い出していた。Twitterのアイコン画像は、その時に公園で撮った写真にした。Twitterをするたび、思い出せるように。美しすぎる写真。遠くに小さく彼女が写っている。私はあの日、公園に行った瞬間のことを今も鮮やかに覚えている。遊べないと思ったのに彼女は公園でスケッチをしていることを教えてくれた。私はコーラとスケッチブックを持って、公園に向かった。彼女の車を見つけて、自分も隣に止めて、湖の方に歩いて行った。ベンチに座っている彼女が見えて、胸がいっぱいになって遠くから写真を撮った。直前までつきあっていたのに、もうつきあっていない、っていうことがうまく理解できなくて、でも彼女はそこにいて、私たちはまだひかれあっていた。

その時、私はフィルムでもたくさん写真を撮ったんだ。普段は撮らないのに。たくさん撮った。

二人の影。
ベンチの上の彼女。
ベンチの上の私。
振り向いた彼女。
木上りしている彼女。
芝生の上に投げ出された二人の足。
緑色に光る湖。

私はこの時の気持ちを覚えている。でも、あの時とは違う気持ちだ。

今はもう二度と二人が元に戻ることがないことがわかっている。きっと死ぬまで二度と言葉を交わさないだろうことも。あの時あんなに強く願っていた何かは手に入ったのに、私はその後それを自分で破壊してしまった……。

前は彼女がいない時でも、将来自分には彼女ができて「皆みたいに」幸せになると思っていたし、そうしたら「皆みたいに」彼女一筋になって彼女を大事にして、いつか一緒に住んで、子供を産んで、幸せに暮らしたい、そうできるって思っていた。

今は全然そんなこと思えない。

自分はそれなりに幸せに生きていけるんだと思う。でも、昔夢見ていたこと。それは、本当に幻想であって、私はそれを手に入れることは一生ないのかなと薄々感じ始めていて、それはそれで、開き直ってしまえばそれなりに楽なんだと思うけど、私はまだそう思えない。

もしくは、私の傷がまだ癒えていないっていうだけなのかもしれない。
だって、例えば、もっと昔の彼女の写真を見ても私は今は何も思わないし。
その時辛かったことを書いたブログ記事を読んでも、その時の気持ちはうっすらとしか覚えていないし、それで泣くってことはない。

この写真を見て泣いてしまったことも、今こうして支離滅裂な文章を書いている瞬間のこの気持ちも、八月の公園の美しさも、あの時の切なさも……また全部薄れてしまうんだろうか。

また全部忘れて、また全部薄れて、また私は誰かを好きになることができるんだろうか。その精神的な体力が自分には残っているんだろうか……?
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