ブランド品のスゴいところ

ブランドについて、そして、価値について。
昔からよく考えていた。

なぜ、皆がブランド品をほしがり、単なるビニール製のバッグなのに数万円も喜んで支払うのか?その秘密が知りたかった。

以下は私が8年前に書いた雑文である。

この作品は一般的に良いと言われているのだが、自分にはいいと思えない。また、自分的には好きなのだが、世評ではコマーシャリズムに走ったなどと酷評されている。そんな経験はないだろうか?そのものの価値は何で決まるのか、わからなくなった時はないか?

個人の好き嫌いを超えた普遍的な価値というものは存在するのか?芸術とエンタテイメントは峻別できるのか?できるとすれば芸術はエンタテイメントより高く位置するのか?そんな疑問が浮かぶ時はないか?

私はある。「価値」とは何か、その高低が何によって定められているのかを知りたい。

たとえば、金やダイヤモンドを考えてみよう。現在、もっともシンプルな意味で「価値がある」とされる物質である。通貨はそれが流通する国家や制度の中でしか価値を持たないが、(ある国や制度が崩壊すれば、そこで使われていた通貨は紙切れ、または金属の塊と化す)、金やダイヤモンドは、恐らくどこへ行っても「価値を持つ」。別の言葉で言えば、そこである程度の通貨と交換できることが保証されている。

では、なぜ金やダイヤモンドは(おそらく)全世界どこへいっても、そこで価値を持つことできるのだろうか?それらの「価値」は普遍的であるように見えるが、そもそもはどのように生まれたのか。思うに、金やダイヤモンドは(1)、希少価値がある。(2)、美しい。(3)、変質しにくい。以上三つの理由によって、徐々に人類共通の価値としての地位を築き上げていったのであろう。どれか一つでは足りなく、三つのバランスによってである。たとえば金やダイヤモンドよりも珍しい金属、鉱物というのは存在するだろう。しかしそれだけでは足りない。それが美しく、手に入れたいと感じさせることが重要である。また美しいだけでなく、「手に入れたいのに入らない」つまり希少価値も価値を上げるためには重要だ。

ようするに、金やダイヤモンドの「価値」も人類の「美しい」「手に入れたい」という主観があって初めて成立していることがわかる。金やダイヤモンドは現在の地球という環境における通貨と似たようなものだ。火星人には価値を持たないかもしれない。そこに価値を見出す環境があって初めて価値は生まれる。それが価値の本来のありかただろう。

このことは、対象が小さくなれば、もっと納得しやすいであろう。先日、神保町の古本屋でビートルズのサインいりレコードが50万円で売られていた。古ぼけたそのレコードに50万円の価値があるか?ということは誰にも言えない。レコードの本質の価値、というのはそこで考えてみても意味がない。重要なのは、それを50万円で購入する人がいる、という現実である。つまり、コレクター市場では、価値があって、値段があるのでなく、その値段で買う人が存在するところに価値が生まれる。逆に、誰もその価値をわかる人がいなければ、そのものは無価値ということになる。この考えは、いささか不安を呼び起こす・・・・。

対象を人間に向けてみよう。価値ある生き方とは何か。なんて一概には言えない。けれど、人の一生を「いくら稼ぐか」という一つの指標ではかることはできる。ここで仮にそういう形で人間の価値を図ってみる。ある統計によれば、一般的なサラリーマンは二億稼ぐのがやっと、優秀な人で三億行くか行かないかであるという。そして価値ある人間とはその一般よりも多く稼ぐことであると仮定してみる。するとそこから派生して、「稼ぐために有利な条件」を備えることが価値である、という命題が導き出される。各々想像してみると良い、このような価値観は現在の日本でも結構通用しているものではないだろうか。

もちろん、また違ったところに価値を見出すこともできる。それは人によって違う。というか、全員に共通した価値観を植え付けることが不可能だ。ただ、そこに共通することは、「価値は手に入れたいところに生じる」「価値は少数の者しか手に入れられない」「価値はその人にとって快楽である」ということくらいだ。

しかし、ここで逆転現象が起きている。上に述べた沢山稼ぐという価値についてみてもわかることだと思うが、現代において、価値は、すでに人間の根源的な欲望から生み出されるものではなく、まず「価値とされる方向」があり、そちらに向かっていくことが価値になっている。価値とされる方向が生まれるのにも、理由はある。多数の人間が「価値」を見出すところには、「それは絶対的なものだ」と言いくるめようとする流れが生まれ、あたかも「絶対的な価値」があるかのような情報が溢れる。しかし、それはポピュラー・メジャーであるという以外の意味は持たない。また同じようにマイナーであるということも、それ自体では何の意味もない。それを価値であると感じる人が少ないという一事実でしかない。しかし、そのような数の引力に引きずられ、絶対を作ろうとするのが、批評・評論の試みではないか。批評・評論はそれ自体一つの創作として「価値」を(私自身は)認めるが、それによって、批評・評論の対象の価値が決まるとは思わない。解説を読まなければ、感想を持てない人は情報にスポイルされている。彼にあらゆる一次的創作物は必要ない。ブランド品で安堵を得ていればよい。

価値は常に自分の内部から来るべきものである。それが外から来るのが今の社会だ。かく言う私だってそうである。しかし、常に大多数の側に立つことはできない。どこか自分だけの価値を持たないと、いつか全てを見失うだろう。(2000.4.2)



少し稚拙だが、価値について当時から考えていたことが伺える。

価値。

そこに価値を見出す環境があって初めて価値は生まれる。

これについては、今も同感だ。

最近以下の文章を読み、面白かった。

「ファッションビジネスを成功させるためには2つ売るものがあるんだよ、岡田」と言われたことを今でもはっきりと覚えています。「それは商品とイメージ。しかも多くのデザイナーがイメージが6割以上で残りが商品なんだよ」

(中略)

 パリコレのショーのお客様は2分の1がバイヤーで、彼らは売れる商品を探しています。今日明日の家賃や給与を払えるような売れ筋の商品を。また2分の1はプレスで、彼らはこれから来るであろうトレンド商品を探しに来ています。売れるものではなく半歩進んだイメージの高い商品を探しているのです。

http://www.zakko.or.jp/jpn/opinion/20080601.html


デザイナーはイメージが六割以上で残りが商品。
これはポールスミスの言葉らしいがまったく驚きはない。
特に、ファッション業界や美容業界において、“価値”は、その大部分が“イメージ”に支えられており、価格のほとんどがイメージに対して支払われていることは有名だ。

これ、もっとはっきりいうと、世の中の多くの高級品いわゆるブランド品には、その価格に見合うだけの品質や機能性はないということよ。

それは悪いことではない。

イメージによって購買が刺激され、イメージによって満足が得られる。それは衣食住の問題をクリアした高度レベルでの満足であり、そういうところに大してキャッシュを費やすという行為を私は賞賛する。

分かりやすくいうと、「ブランド品を買って満足できる」というのは、高度な文明においてのみ可能な種類の満足だと思う。

原料を製品にするという部分の価値創造=マニファクチャリング。
製品の実コストから計算される価値を何百倍にする“イメージ”という見えない価値を創造=ブランディングやパブリシティ。

完全に現代の錬金術だよね。
価値を生み出すという行為。
しかも原料は「知識と戦略」。
ブランドを作るというのは、なんて、エキサイティングな仕事なのだろう。
関連記事
スポンサーサイト

comment

comment form
公開設定

trackback


→ この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。